大久保利通~勤厳実直、冷徹な決断力。我が主張を通す策士。

画像 維新の三傑のひとり、大久保利通は文政13年(1830)、薩摩藩士・大久保利世の長男として生まれる。幼名は正助。後、島津久光から一蔵を賜る。
幼少期、郷中や造士館の仲間は親友・西郷の他、税所篤、吉井友実、海江田信義など。
 安政4年(1857)、藩主に就いた斉彬のもと西郷とともに徒目付となるが、翌年、斉彬が急死し、西郷は失脚する。
大久保は西郷に代わり、新藩主・茂久の実父・久光に接近する。文久元年(1861)、御小納戸役に抜擢され、藩政に参与するようになる。
 文久2年(1862)、久光に従い京に上り、京都の政局に関わりはじめる。
はじめは岩倉具視らと公武合体路線する。この間更に昇進し、御側役として小松清廉と並んで、久光側近となる。
慶応3年(1867)、小松,西郷と雄藩会議開催を図るが、徳川慶喜に阻止される。
これを期に武力討幕路線が決定的になる。
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 王政復古までの流れは省略。
 明治2年(1869)7月、参議に就任、明治6年に内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握り、藩籍奉還,廃藩置県、更には学制や地租改正,徴兵制などを実施していった。
岩倉使節団の副使として外遊中、発生した征韓論争で西郷と対立し、最終的に西南戦争で西郷を死に追いやることになった。
明治10年(1877)、木戸孝允が病死し、西郷が戦死し、最後に残った維新の三傑・大久保利通も翌明治11年(1878)5月、石川県士族に紀尾井坂で暗殺された。
享年満47歳。

 大久保利通は金銭に潔白で、死後には大きな借財が残っていた。この面では、西郷さんの清貧な生きざまと合い通ずる。
この借金の整理と残された家族の面倒をみたのは、五代友厚である。
清廉潔白、勤厳実直、冷徹な決断力。我が主張を通す策士。その一方、家族思いの優しい父親像も見せる。

 西郷さんと袂を別った時も、生涯の友の死を悼みながらも、自身が下した決断を信じた。
『西郷死亡の報らせを聞くと号泣し、「おはんの死と共に新しか日本が生まれる。強か日本が・・・」・・・』
大久保の後を襲った伊藤博文の、(明治最大の疑獄事件の首謀者達:井上馨や山縣有朋ら)竹馬の友との付き合いとは雲泥の差がある。


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