『聲なきに聞き 形無きにみる』の精神を伝える~川路 利良
日本の近代警察を構築し、自ら警視庁初代大警視(警視総監)となった川路利良は、天保5年(1834)鹿児島近在の比志島村に生まれる。元治元年(1864)の禁門の変で戦功をあげて西郷隆盛や大久保利通らに高く評価される。
明治5年(1872)8月、東京府に属していた警察権を司法省警保寮へ移管するに際し、警保助兼大警視に任命され、西郷隆盛の推薦により、警察制度研究のため欧州へ1年間出張、帰国後はフランスの警察制度を参考に警視庁の創設を進めた。
明治7年(1874)1月、東京警視庁が設置され、これに伴いその長たる警視長に任命され、さらに同年10月15日大警視へと昇進する。
この時期折りしも沸き起こった征韓論争で下野した西郷隆盛が鹿児島に帰るが、川路は、「私情においては誠に忍びないことであるが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。大義の前に私情を捨てあくまで警察に献身する。」と自己の信念を明らかにして、行動を共にしなかった。
その後は、内務卿の大久保利通から厚い信任を受け、岩倉具視の暗殺未遂事件(食違見付の変)、佐賀の乱などが起こると密偵を用いて不平士族の動向を探るなどの役目も果たした。
明治10年(1877)1月、政府が鹿児島県の武器火薬を大阪へ移動を開始したことに激昂した私学校生徒らが暴動を起こし、これを発端に西南戦争が勃発。2月には、政府の密偵が私学校生徒側に捕えられ、拷問の末、川路が西郷隆盛を暗殺するよう指示したという「自白書」が取られた。このことにより、川路は郷土の人々から憎悪の対象とされた。
明治11年(1878)3月、黒田清隆の妻が病死した際、黒田が酒に酔って妻を殺したとの噂が流れたため、川路が墓を開け、病死であることを確認した。
明治12年(1879)1月、2度目の海外視察に出発するが、船中で病を得て、パリに到着後病床に臥してしまう。転地療養なども行ったが回復せず、10月に帰国。東京に帰着すると病状は更に悪化し、同月13日、この世を去った。享年46歳。
川路利良の「聲無キニ聞キ 形無キニ見ル」の精神は現代の警察官に受け継がれるて欲しい。
警察手眼は、川路利良の語録を丁野中警視が植松氏に依頼し、編集させたもの。
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警察要旨の項
行政警察は、国民を罪におとさないよう予防が第一だ。軍隊と警察は、国を守る両翼のようなもので、軍隊のヨロイカブトに対し、警察は、力を養う薬餌のようなものだ。
政府が父母なら、人民は子供で警察はそのもり役。
警察官心得の項
酒を温めるには、その酒より暖かい湯でなければならない。
人を導くとか、警めるとかは、先ず自分自身が相手より勝れた存在でなければならないし、その行動は「仁愛補助の心」からはみだしてはいけない。
人民のために、捕縛の役目を勤める警官は、我に対して人がいかなる無理非道の挙動があっても、道理を以って懇切を尽くし忍耐強く勉強せねばならない。
探索の道、微妙の地位至りては「聲なきに聞き 形無きにみる」が如き、無声無形の際に感覚せざるを得ざる也。
怪しき事は多く実なき者なり、決して心を動かすべからず。然れども、一度耳に入る者は、未だ其の実を得ずといえども、亦、怠らざるは警察の要務なり。
「聲なきに聞き 形無きにみる」の言葉は、現在も警察官の活動の指針となっている。即ち、警察官たるものは、声なき声に耳を傾け、表面的、外形的な現象のみにとらわれることなく、奥に隠されたモノを見逃すことなく、真実をあばき出すことが必要であるということである。
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