篤姫(天璋院)〜島津家のお姫さまが徳川政権の末期を看取る
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作成日時 : 2012/01/20 15:48
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天璋院篤姫は天保6年(1836)薩摩藩島津家の一門・今和泉島津家5代・島津忠剛の娘として鹿児島城下上町で生まれる。幼名は一子。幼少から聡明.利発と評される。
嘉永6年(1853)従兄である薩摩藩主・島津斉彬の養女になり諱を篤子に、また近衛忠煕の養女となった際には藤原敬子(ふじわらのすみこ)と名を改めた。
同年8月21日に鹿児島を陸路出立し熊本を経由、途中大阪の住吉大社などに参拝して江戸藩邸に入る。
江戸の薩摩藩邸で2年の婚礼準備の後、右大臣.近衛忠煕の養女として安政3年(1856)11月に第13代将軍・徳川家定の正室となり、年寄の幾島を伴って大奥に入った。(この後生涯を通して故郷・鹿児島に戻ることは無かった。)
しかし輿入れ後波乱の展開が待っている。
開明派幕閣の阿部正弘が安政4年6月(1857)に若くして死去すると、井伊直弼が大老に就任、安政の大獄が始まる。
そのさなか安政5年(1858)7月に家定が急死し、同月16日(8月24日)には斉彬までもが死去してしまう。篤姫の結婚生活はわずか1年9ヶ月であった。家定の死を受け篤姫は落飾し、戒名は天璋院殿従三位敬順貞静大姉、通称天璋院と名乗る。同年12月、従三位に叙位。
家定の後継として徳川家茂が14代将軍に就任。
文久2年(1862)、家茂の正室として皇女・和宮が大奥へはいる。
和宮と天璋院の関係は皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いもあってか不仲だったが後には和解した。また、自ら擁立する予定だった慶喜とは仲が悪く、慶応2年(1866)の慶喜の大奥改革に対しては、和宮(静寛院宮)と共に徹底的に反対した。
慶応3年(1867)、慶喜が大政奉還をした後、天璋院と静寛院宮は島津家や朝廷に徳川の救済と慶喜の助命を嘆願し、これを実現した。
明治維新後は東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らし、自分の所持金を切り詰めて元大奥関係者の就職・縁組に奔走した。また、徳川宗家16代・徳川家達に英才教育を受けさせ、海外に留学させるなどしていた。
明治16年(1883年)11月13日、徳川宗家邸で脳溢血で倒れる。意識が回復しないまま、11月20日に49歳(満47歳9ヶ月15日)で死去した。葬儀の際、沿道には1万人もの人々が集まったとのことで[2]、その様子が「天璋院葬送之図」にも描かれている。徳川将軍家の菩提寺である上野の寛永寺境内にある夫・家定の墓の隣に埋葬された。
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