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zoom RSS 『雨夜譚 余聞』(述 渋沢栄一:小学館)

<<   作成日時 : 2010/11/06 10:41   >>

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画像 渋沢栄一は天保11年(1840)、現在の深谷市に生まれる。生家は、村でも有数の富農で農業のかたわら藍玉の製造販売を手掛けるなどしていた。
幼い頃から、父や従兄らから漢籍を習い、家業の藍の葉仕入れに商才を発揮などした。
その後、江戸に出て武術や学問を学ぶが、情報と物流に恵まれた土地柄と時代の熱気から尊皇攘夷運動にのめり込む。
栄一や従兄を含む仲間たちは高崎城乗っ取り計画の実行直前までいったが、京都の状況を知った従兄・尾高長七郎の必死の説得で中止する。

 幕府の追及を逃れて京都に来た栄一と従兄・喜作は、江戸で知遇を得て、今は京都守衛総督・一橋慶喜の用人・平岡円四郎を頼り一橋家に仕官する。
一橋所領地での産業育成などで才能を発揮して慶喜の厚い信任を得た栄一は、慶応3年(1867)、慶喜の実弟で水戸の徳川昭武(1853〜1910)のパリ万博とその後のフランス留学に随行する。この訪欧により、それまでの攘夷思想は消し飛んでしまい、後に自身では、「・・・もうパリ辺りに行くととてもという観念が起こって・・・夷狄禽獣と思った考えは失せて、とてもわれわれは勝てぬのであるから、これを師として学ぶほかはない・・・かの地へ行ってみると人の行動といい人の守るべき主義といい、すべてのことがよほど届いており、また発達している様子であった。自国のほうは人民に階級があって、百姓町人は一生頭が上がらぬという制度であるが、これに引き換えて西洋はそんな階級はない。それだけでも大層敬服した。」と振り返っている。
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 この考えの大転換を経て、大政奉還−王政復古のなかで、慶喜が移った静岡藩で家老職・大久保一翁とともに産業育成・財政建て直しに力を発揮するが、すぐに各藩に能吏を求めていた明治新政府から声がかかり、大蔵省の大隈重信大輔、伊藤博文少輔のもとで、租税司の正としてスタートする。
しかし、本来渋沢は国を富ますのには商人の地位向上がなければならない。そのためには、自身も商工業に従事して「知行合一主義」を実行したいと考えていていたが、明治6年(33歳)に官を辞し、第一国立銀行(日本初の民間経営による商業銀行)の創立と安定経営にのりだす。
この後生涯で総数600に上る会社・団体に関係し、昭和6年(1931)、91歳で没。

 この本は、明治20年(1887)、栄一の談話を弟子が筆記したものがタイトルで、実業家に転進してからの経歴を『青淵回顧録』から追記した形になっている。

雨夜譚余聞 (地球人ライブラリー)
小学館
渋沢 栄一

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