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前田正名〜のちに『布衣の農相』と呼ばれ、生涯その身を農業,中小企業の発展に捧げた。
前田正名は薩摩藩医前田善安の6男として嘉永3年(1850)に生まれる。
幕末の騒乱時代に遅れて生まれ、藩校で勉学の後慶応年間(1865〜68)には長崎に遊学して研鑽を積む。
明治2年(1869)、それまで薩摩藩留学生が世話になっていたモンブラン伯爵に随行してパリへ留学する。この留学には、薩摩藩の将来を嘱望される若者を育てたいという大久保利通の計らいによるものといわれている。
パリに着いた正名はモンブラン邸に寄宿しながら、フランス農商務省で行財政を学んだとされる。
パリの留学生活は7年...
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2012/05/02 15:50 |
小松清猷〜若くして琉球の地で客死した斉彬の側近
小松清猷(こまつ きよみち)は文政10年(1827)、一所持で吉利領主の小松清穆の次男に生まれる。
幼少より才気有り、神童の誉れ高かったという。天保7年(1836)、藩主島津斉興の加冠により元服。
天保11年(1840)、父・清穆が48歳で隠居し、家督を相続する。天保15年(1844)、詰衆になる。
嘉永元年(1848)、島津斉興の命で京都に赴く。嘉永2年(1849)當番頭、奉者番に就任。
嘉永4年(1851年)2月に斉興が隠居し、斉彬が第11代藩主に就任する。その年5月、江戸幕府より...
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2012/04/24 17:17 |
小出千之助〜知られざる佐賀藩の先駆者
小出千之助は天保3年(1832)、小出利平衛の五男に生まれる。藩校弘道館に学び、のち蘭学寮に移る。
佐賀藩蘭学寮でオランダ語を修め語学力を認められた小出千之助は、万延元年(1860)、幕府が計画した日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節団77名に通詞として一行に加わり米軍艦ポーハタン号で海を渡った。佐賀藩からは総勢7人が参加していた。
この時、勝海舟を船長に福沢諭吉、中浜万次郎らを乗せた咸臨丸がサンフランシスコまで随行した。
咸臨丸と別れた使節団はパナマ地峡鉄道で大西洋側に出て、...
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2012/04/13 14:29 |
板垣退助〜薩土盟約を成就させた男
板垣退助は天保8年(1837)、土佐藩上士の乾正成(300石、馬廻格)の嫡男として生まれた。幼名を猪之助,名を正形といい,退助は通称。
少年期は素行が悪く,藩から2度の処罰を受け、父正成の死後、家禄220石に減ぜられて家督相続を許される。
参政吉田東洋の影響を受け、江戸で西洋式兵学を学ぶ。
心情では尊王攘夷論に反対ではなかったが武市半平太らの強引なやり方に反発を覚えていた。そんな中、文久3年(1863)正月,主君山内容堂のお声がかりで武市派に対抗する50人組を組織する。
その年8月、...
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2012/04/04 17:36 |
伊東祐亨〜日向の戦国大名の末裔
伊東祐亨(いとうすけゆき)は天保14年(1843)、伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれる。伊東家は南九州の豪族.伊東氏の末裔。幼名は四郎といい、父親から、仁•義•礼を大切にする教育を教えられた。
四郎は6歳から郷中教育を,続いて藩校造士館に学ぶ。
その後、文久3年(1863)の薩英戦争で力の差を見せつけられた薩摩藩から、大山巖,黒田清隆らとともに江戸の江川太郎左衛門塾に派遣され、砲術を学ぶ。
更に伊東らは、幕府軍艦奉行の勝海舟の建言で元治元年(18...
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2012/03/31 13:53 |
勝海舟、「東京奠都三十年祭」に寄せての感慨
勝海舟は時の政府から、「東京奠都三十年祭」を遂行するための実行委員就任を要請されたが、『自分の任ではない。』として断った。
其のときの海舟自身の維新30年に寄せる思いを氷川清話に残している。
明治維新で、江戸の街が無事に残ったのは西郷南洲の力であり、その後の東京の整備・発展に一番の力があったのは大久保利通であり、現在(明治31年)まで生きていてくれたらよかったのに、と回顧している。
海舟は、また他の談話中には、大村益次郎ら長州軍の上野戦争など幕軍鎮圧に示した強硬策に大きな不快を示してい...
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2012/03/25 12:32 |
大迫貞清〜勝海舟は『氷川清話』で大量寛宏の男と評した
勝海舟は『氷川清話』で、大迫を次のように誉めている。 「維新後の静岡県は、旧幕のものが沢山移住して居たところだから、尋常の人では治め難い云々、、大久保(利通)は不承知のようだったが、大迫が適任だと思っておれは推薦した。----大迫は、極めて大量寛宏の男で、干渉圧政がましいことはせず、公正至誠の考えを持って県治を施し、大様にやったから徳望は自然に帰した。」
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2012/03/15 14:21 |
島津斉興〜祖父・重豪への反動からか 守旧的な考えに固執した
島津斉興は後世の評価は頗るよくない。お由良を溺愛し、嫡男で聡明な斉彬の藩主就任を40歳半ば迄許さず、策略による江戸幕府からの引退勧告に渋々従った。また、斉彬が急逝した後藩主に就任した忠義が歳若いことを理由に、後見役として表舞台に顔を出すなどしたからだ。
斉興は、島津氏第27代当主で薩摩藩の第10代藩主。
寛政3年(1791)、第9代藩主・島津斉宣の長男として江戸で生まれた。文化6年(1809)6月、近思録崩れの責任を取らされた父・斉宣が祖父・島津重豪によって強制隠居させられたため、19歳...
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2012/03/10 11:23 |
蓮如〜聖俗具有の聖人(五木寛之 著)
浄土真宗中興の祖と称される蓮如は、応永22年(1415) 京都東山の大谷に父存如20歳の子として生まれる。
婢の子供に生まれた蓮如は、長禄元年(1457)、存如死去を受けて、43歳で大逆転の本願寺第8代法主に就任するまでは赤貧の中で教学、聖教の勉強に熱中したという。
長い雌伏の時を経て、一気に燎原の火のように真宗の教えを一般民衆の心に灯す活動をはじめている。中年を過ぎてなお迸るエネルギーと言うべきか。
その精力は、28歳の時初めての妻を娶ってから、85年の生涯で5度のy結婚をして13男...
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2012/02/18 12:20 |
赤山 靭負〜「お由羅騒動」で散った桂久武の次兄
赤山 靭負(あかやま ゆきえ)は文政6年(1823)1月、島津歳久を祖とする日置島津家12代当主島津久風(ひさかぜ)の次男として生まれる。諱は久普(ひさひろ)。
一所持の中でも特別な存在である日置島津家の次男として、久普は天保4年(1833)12月に藩主島津斉興手ずから加冠を受け、元服をする。長兄は、第29代藩主島津忠義の主席家老を勤めた島津久徴、弟は、西南戦争で西郷隆盛と共に城山で戦死した桂久武。
天保12年(1841)に小納戸見習行奥小姓となり、天保15年(1844)に江戸滞在中に供...
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2012/02/14 17:57 |
篤姫(天璋院)〜島津家のお姫さまが徳川政権の末期を看取る
天璋院篤姫は天保6年(1836)薩摩藩島津家の一門・今和泉島津家5代・島津忠剛の娘として鹿児島城下上町で生まれる。幼名は一子。幼少から聡明.利発と評される。
嘉永6年(1853)従兄である薩摩藩主・島津斉彬の養女になり諱を篤子に、また近衛忠煕の養女となった際には藤原敬子(ふじわらのすみこ)と名を改めた。
同年8月21日に鹿児島を陸路出立し熊本を経由、途中大阪の住吉大社などに参拝して江戸藩邸に入る。
江戸の薩摩藩邸で2年の婚礼準備の後、右大臣.近衛忠煕の養女として安政3年(1856)11...
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2012/01/20 15:48 |
竹姫(浄岸院)〜その後の薩摩藩台頭に大きな貢献をした
浄岸院(竹姫)は宝永2年(1705),公家の清閑寺熙定の娘として生まれる。叔母の大典侍の局(寿光院)は5代将軍徳川綱吉(1646生)の愛妾だったが、ふたりの間に子ができず、竹姫を養女にする。
竹姫は結婚に縁遠く、宝永5年(1708)7月に会津藩主松平正容の嫡子久千代(正邦)と婚約するが、同年12月、久
千代は早世する。その後も婚約した有栖川宮正仁親王も結婚を前に没していてしまう。
綱吉の死後、8代将軍吉宗(1684生)との仲も噂されたが、その養女となった享保14年(1729)になってよ...
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2012/01/13 16:32 |
茂姫(広大院)〜島津重豪の娘で徳川11代将軍家斉の正室。
広大院は安永2年(1773)薩摩藩8代藩主.島津重豪と側室の市田氏(お登勢の方(慈光院))の娘に生まれ、後に11代将軍.徳川家斉の正室となる。実名は寧姫、篤姫、茂姫。天保12年(1841)家斉の死去に伴い「広大院」を名乗る。
重豪の祖母で九代将軍.家重の妹分に当たる浄岸院の遺言で、茂姫は3歳で一橋治済の子で,後の11代将軍となる豊千代の許嫁となる。
10代将軍徳川家治の嫡男.家基の急逝で豊千代が次期将軍と定められた際茂姫と家斉との婚約が問題視されたが、徳川綱吉・吉宗の養女である浄岸院の遺...
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2012/01/11 17:26 |
伊集院忠棟〜島津家重臣だったが、その忠誠を疑われて島津家当主・忠恒に誅殺された
伊集院忠棟(生年未詳 - 慶長4年(1599)後に幸侃)は、島津庶流を先祖とする。
もともと伊集院一族は、日置郡伊集院村の地頭職を得て伊集院氏を名乗った島津氏の一族で、南北朝時代以後その勢力を誇り、のち「伊集院頼久の乱」と呼ばれる大乱で島津宗家と争って敗れ、いったんは和解したが再び反抗しその子.煕久が隣国へ亡命した。
その弟の倍久は伊作家の島津忠良に従い、その後は島津家の家臣となった。倍久の孫の忠朗から忠倉・忠棟の三代は代々島津家の家老として活躍する。
忠棟は早くから16代当主義久に仕...
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2011/12/23 16:38 |
御南〜島津忠良の娘。大隅の肝付兼続に嫁ぎ、薩隅の安定に貢献した。
島津忠良の娘御南は、大隅の有力豪族.肝付兼続に嫁ぎ薩隅の安定に貢献したが、後に島津氏と肝付氏が対立するとその板挟みとなった。
永正8年(1511)、島津忠良の長女に生まれる。後に結婚する兼続とは同年生まれ。
大永6,7年頃(1526,7)大隅地方の豪族・肝属宗家の肝付兼続と結婚。
天文4年(1535)長男・良兼を出産。天文22年(1533)には夫婦で父,忠良の元に帰り、一緒に正月を祝うなど、この時期の島津氏と肝付氏の関係は大変円満だった。
永禄元年(1558)には妾腹の五男,兼亮が誕生...
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2011/12/16 22:36 |
亀寿〜島津義久の三女で、島津家久(忠恒改め)の妻。「持明彭窗庵主興国寺殿」。
亀寿は哀しい女性として知られている。ではどんな生涯だったのか。
亀寿(1571-1630)は宗家16代・島津義久の三女。島津義久は男子に恵まれず、実質的な後継は正室.花舜夫人との間にできた亀寿。島津一族としては、義弘の嫡男.久保と結婚して、この若夫婦が義久の後を継ぐことが既定路線だった。
ところが不幸なことに結婚して2年目の文禄2年(1593)9月、朝鮮出陣中に病死してしまう。
この時、島津の後継指名に豊臣秀吉が口出しをする。
その他の候補者((島津忠仍:、島津忠隣:)などがいるに...
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2011/12/15 15:51 |
常盤(梅窓婦人)〜思わぬ運命の徒で島津中興の要となった
常盤は戦国時代、新納是久(?-文明17年(1485))の娘。島津忠良(日新斎:明応元年(1492)-永禄11年(1568))の母。
父・是久は島津一族.新納氏の庶流で、長禄2年(1458)兄・新納忠続が島津宗家の命で日向飫肥に移され、本拠の志布志を任される。忠続の支配地であった櫛間には、伊作庄(現在の日置市吹上町)が本拠の島津久逸(しまづひさやす:嘉吉元年(1441)-明応9年(1500))が赴任する。
新納是久は島津久逸との結び付きを強めるために、娘・常盤の婿養子に島津久逸の子である善...
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2011/12/12 14:55 |
肝付兼続〜戦国時代、島津氏に対抗して勢力拡大した
肝付兼続は永正8年(1511)に第15代当主.肝付兼興の長男として生まれる。
天文から永禄年間に肝付氏の勢力が最大となるが、肝付兼続が活躍したのはその時期になる。
天文2年(1533)、父・兼興が死去すると、後継争いで叔父の肝付兼執を滅ぼして家督を継ぎ第16代当主となる。
兼続は隣国・島津氏との友好関係を維持することを重視し、島津忠良(号は日新斎:島津中興の祖)の長女御南を妻として迎える一方で、妹を忠良の嫡男.島津貴久に嫁がせている。
一方で大隅一円の平定に着手し、天文7年(1538...
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2011/12/09 17:45 |
肝付兼重〜鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将
肝付氏は平安時代、伴兼行(伴善男の玄孫)が薩摩掾に任命され、孫の兼貞は大隅国肝属郡の弁済使となる。その子の兼俊の代に郡名を取って肝付氏初代となる。
その後、南北朝時代には後醍醐の宮方に属し、北朝方と戦った大隅地方の豪族。
肝付兼重は鎌倉末期から南北朝のこの時期の肝付氏第8代当主。6代当主・肝付兼藤の次男で、第7代当主・肝付兼尚の弟だったため、はじめは荻原氏の家督を継いでいたが、やがて兄の代理として本家の家督も相続した。
元弘の乱における足利高氏の鎌倉幕府倒幕運動が高まった元弘3年(1...
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2011/12/07 22:13 |
牧野伸顕〜大久保利通の次男。オールドリベラリスト。
牧野伸顕(まきののぶあき)は、文久元年(1861)10月、大久保利通の次男として鹿児島に生まれる。幼名は伸熊。
明治4年(1871)、父利通の希望で上京した伸熊は同年7月遣欧使節一行に同行してアメリカに留学する。3年間の留学を終えて、のちの東京帝大に入学、中退して明治12年(1879)外務省御用掛に採用後外交官として活躍する。
その中でも白眉は、第一次世界大戦後の1918年に開催されたパリ講和会議次席全権であろう。
高齢の西園寺全権に代わり、差別的人種撤廃提案をしている。当時の欧米列強...
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2011/12/02 16:31 |